九郎貴神社社殿再建並びに御由緒
当神社の由緒によれば、天明2年から7年(1782〜1787)にかけ、異常気象等により世に云われる天明の大飢饉が起こり、天明3年には死者2千人以上と云われる浅間山の大噴火があり、その粉塵は江戸をも覆いつくし、更にこれを遡ること約70年前の宝永4年(1707)の富士山の大噴火、又これが起因と云われる同年10月4日の死者・行方不明者合わせて2万人以上の犠牲者を数えた宝永大地震等の天変地異により、人心大いに乱れ、世情の不安は極に達し、朝廷はこれを憂い、奉斎随順の衆生救済と富士山鳴動の鎮静を願い、天明4年3月勅命によって、山城守藤原右京に「九郎貴様」を奉持させ京都を旅立たせた。 右京は各地の神社仏閣を加持祈祷しつつ富士に辿り着き、富士山周辺を行脚した後、山中部落に逗留することとなった。右京は早速、富士溶岩流の先端(現在地)に小祠を建て「九郎貴様」を奉祀し、天児屋根命の故事に倣い、団扇太鼓にお題目を唱え、只管富士の鎮静と、五穀豊穣を祈願したと云われている。翌年旧暦の3月15日衆生救済を祈願し自ら即神仏となるため、一升三合の「むすび」を持って富士に入山し帰らぬ人となった。里人はこの尊い行為に敬仰感謝し、御神徳に報ゆるための社を造営し、信仰しきたるも社殿の老朽荒廃が甚だしくなったため、神社関係者協議の結果神社有財産特別会計をもって社殿を再建し、神慮を案じ奉り以って天地悠久の神道を永久に伝承するものである。茲に九郎貴神社の由緒を記し今回の社殿造営の経緯とこの事業に尽力された各位の芳名を碑に刻し後世に伝える。
平成十年三月吉日
浅間神社宮司 坂本任邦 撰文